2019年2月 この1冊
読んでいて「ビビる」ということがよくあります。
あまりにも今感じていることと呼応している、またはその感覚にはっきりとした言葉を充てられている、というときに「ビビる」わけですが、この本はその「ビビり」の極致であったと言えます。
本を読んだり、人と接したりする中で 感じ入ったり考えたり記憶に強く残ったり、なにかわからないけど大事だと思ったこと、そのそれぞれに明確な言葉や説明を与えられないまま引き出しにしまわれた「何か」について、鷲田さんは言葉を与えてくれています。
例えば
別の町で身元をゼロにして人知れず生きつづけるという1960年代流行語となった「人間蒸発」とその事件の背景を哲学的に問うくだりでは先日読み終えた『ある男 / 平野啓一郎』を、またひとには生涯複数のアイデンティティがあって当然だというくだり、これも平野啓一郎の提唱する分人主義との親和性を見るのですし
ピュアであることやクリーンであることの志向がいまや強迫観念へとエスカレートしつつある“清潔シンドローム”の章を読めば、村田沙耶香の描く『コンビニ人間』や『消滅世界』の真っ白くもおそろしい光景を思い出しもし、怖いのに見ずにはいられないのはなぜだったろうという不思議に、そっと解がもたらされるのです。
また
122ページ
すべてをそつなく敏速にこなす看護婦さんの世話を受けるのと、注射を打ち損なったり、体温をはかるのを忘れたりするドジな看護婦さんの世話を受けるのでは、後者のほうが幸運なこともあるのである。なぜなら、そのような看護婦さんは、わたしたちをたえずはらはらさせたり、疑心暗鬼にしたりすることによって、じぶんを他者にとって意味あるものとして経験させてくれるからだ。(原文ままに転記)
という一文を読みながら記憶の引き出しがすっと開いて浮かんでくるのは
こんなめに
きみを会わせる人間は
この最も好きな短歌の一句なのでした。
どうして忘れられないのだろう。
どうして惹きつけられるのだろう。
ただ、好きだ
というだけでは言い尽くせない何か について、そういう言葉があてはまるんだなあと、ようやく少しの輪郭を思うことができました。
ああ、たのしいな。
たのしくて「ビビる」なあ。
土曜の夕方に粟立つような一瞬に遭遇したのですが、そのなんともいえない情景にまで解答となる一文もあり、あまりにも救いの多いこの本の性質に、それはそれでまたぞわっと鳥肌がたったものです。
今月の一冊
「じぶん・この不思議な存在」 / 鷲田清一 1996年第一刷
結局<わたしはだれ?>にこたえはないのだけれど、この本、というか、本というものが不思議な存在であるということを再確認し、たのしみやよろこびを感じるのに十分な一冊でした。
こんなに付箋だらけになっちゃって!
超個人的なこのような読書体験は、ただただ「わたし」だけのものではあるけれども、外部と繋がることで初めて意味を成すのかもしれません。
どんな本も読む人それぞれに残る箇所はあるでしょう、そのタイミングによっても。
ただもし体験を共有できたとしたら、たのしみやよろこびはまた一層色濃くなるだろうなと心湧きます。
だから読書はやめられないし、もっといえば、本選びはやめられない。のですね。
月に一度の「この一冊」、この記事は完全にじぶんの覚書で恐縮ですが、ひとはそれぞれ、じぶんの道で特定の他者に出会い、その他者の中にじぶんが意味ある場所を占めているかどうか それでこそ わたし は存在する と鷲田さんもおっしゃっているので、思い切って私もこの場でアウトプットをしようと思います。読んでくださった方の中にちょっとでも跡形が残れば恐悦、ということで。
そしてまた、迷いながらの旅の途上で、不完全であっても地図となりうるような本をつくろうという提案から生まれたこの一冊を、今、地図を必要としているひとがあるならばぜひ手にとっていただけたらとも思います。
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